6月14日(土) 平和講話会

 

6月14日(土)やまびこ幼児園において平和講話会が行われました。

講師に NPO法人石川・宮森630会 事務局長の久高政治先生をお迎えし、55年前に

起きた、宮森小学校へのジェット機墜落事故の当時の様子などを話していただきました。

 

 

午前10時 学童クラブの部屋に、空組・太陽組・学童クラブの皆と、今日参加してく

ださった保護者の皆様が集まり、いよいよ平和講話会のはじまりです。

  宮森小学校への米軍機墜落事故は、今から55年前(昭和34年6月30日)、久高先生が

小学校5年生の時に起こった事故です。事故当時、学校には先生方と児童約1300名のほぼ

全員が校舎内にいました。ちょうど2時間目終了後のミルク給食の時間に事故は起こりま

した。アメリカ空軍のジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットは空中で脱出、機体

は民家35棟をなぎ倒した後、宮森小学校のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリー

ト校舎を直撃し、炎上しました。学校内の様子は、天井が壊れ、窓ガラスも割れ「太陽が

落ちて来た!」「戦争だ!」「爆弾が落ちた!」と何が起きたのかわからず、パニック状

態でした。見る見るうちに学校は火の海となり、火柱が20mくらい、黒い煙が空高く上が

り、その煙は隣の町からも見えました。特に2年生の教室が一番被害が大きく、火だるま

になった子ども達が水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられてます。4年

生の教室の屋根にはジェット機の燃料タンクが突き刺さり、6年生の教室にはジェット機

の頭が突っ込み、数名の子ども達が命を落としました。地域住民の方々や先生方も、必死

に子ども達の救助作業にあたりましたが死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷

者210人、校舎3棟をはじめ民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する

という大惨事でした。事故後しばらくは、飛行機が飛ぶだけでも怯え、ちょっとした大きな

音にも怯え、そういう状態が一年程続いていました。宮森小学校の中庭には、犠牲となった

児童らを慰霊する「仲よし地蔵」が設置されていて、毎年6月30日には児童らによる追悼式

が行われています。

 

最後に、久高先生から「人の命の大切さ(親からもらった大切な命を大事にしてほしい)」

「皆で協力し助け合って仲良くしてほしい」というメッセージがありました。

 

 

 

 

✿ 久高先生のお話の後、質問コーナーがありました。

 

 Q 何故、ジェット機は墜落したんですか?(太陽組男子より)

 

  戦争が終わっても、沖縄には米軍の基地が残っています。事故を起こした米軍機は

  事故直前に台湾で整備が行われた後、沖縄の嘉手納基地に戻って整備不良が発見され

  たため、整備し直して試験飛行をしている最中に、操縦不能に陥ったそうです。また

  このジェット機が整備不良だったと知らされたのは事故から40年後でした。

 

 

 Q なぜ子ども達はケガをしたのですか?(学童クラブ男子より)

 

  当時の学校は、木造校舎で屋根はトタン屋根でした。そこにジェット機の燃料が振

  りかかり、一気に燃え上がりました。子ども達は皆、教室内にいたので、被害が拡大

  したそうです。重軽症者人210名の内、150名は学校の子ども達でした。また現在でも、

  外見は問題なくても、事故の後遺症で苦しんでいる方々がいらっしゃいます。

 

 

 

   久高先生へ

   本日はお忙しい中、貴重な体験談をお話いただき本当にありがとうございました。

 

 

 

 ●NPO法人石川・宮森630会の紹介

 

 事故から50周年目を向かえて、当時の2年生が宮森小学校の校長先生として赴任。

ジェット機事故について、風化している現状に危機感を持って、後世に語り継いでいく

活動を開始する。50周年の取り組み以降、組織を再編し2011年にNPOを取得する。

 630会は、一つ目に、ジェット機事故を語り継ぎ、命と平和の尊さを訴えていく、

二つ目に、未来の担い手である青少年の健全育成に寄与することを大きな柱にして活動

しています。1番目の活動として、写真、資料展示会を県内各学校、市町村役所で開催

し、各種団体や学校での講演会を行っています。事故の体験者の証言集や資料集を発行

しました。私達の証言集を元に映画「ひまわり」が制作され、全国で上映されています。

2番目の活動として、NPO法人りんく・いしかわとタイアップして劇団「石川ひまわ

りキッズシアター」を結成して、地域の伝統や文化、ジェット機事故をダンスや歌、演

劇で表現しながら、子どもが子ども達に伝える活動を展開しています。